あれから、、10年後の日常

例によって例のごとく、全然関係ない話から書き始めます。

 

先週末、レコーダーのコンテンツ在庫を見て時間つぶししようとしてたら、録画してたのに見てなかった「天気の子」を見つけたんですよ。

時間的にもちょうどよかったんで見るかぁと。

いまさら、本当にいまさら、始めて見ました。

もう別にネタバレしても構わないと思いますが以下はネタバレです。

 

 

映画だし、そもそもフィクションだからしょうがないだけど、この展開はちょっと醒めるなぁとか、ヒロインの声がクラリスナウシカだなぁとかでも中の人が同じ管理人さんには聞こえないのはなぜだろうとか、絵はきれいだねぇとか見ていたんですよ。

んで、最後の方のシーンで、水没した東京(俺の故郷であるところの「東京」は映画の中では完全水没です)から移り住んだ老婦人が出てくるじゃないですか。彼女は淡々とたくましく日常を過ごしています。

そういうもんなんだよね。

ニュースとかでは「こんなに大変!」とか「こんなに困ってます!」とかいう話題ばかりを取り上げますが、淡々と日常を過ごしているというのはニュースにならないですからね。こと多かれ主義になることを責めることはできないですが、受け取る側としてはそういう事情があるということは頭においておかなければならないです。

誤解を招かないように書きますと、大変な状況の中で日常を感じさせる場面を描くこの映画はすごいというつもりはなく、それを言ったら「うる星やつら」のラスト間際で地球存亡の危機に際して洗濯物が乾くかどうかの心配をしている人たちを描くことの方がよっぽどすごいと思ってます。

 

さて、これはまぁ何度も書いていることで、何度書いても同意する人は少ないか、もしかしたら一人もいないかもしれない自分の感覚を改めて書いていきます。

 

10年、経っちゃったんだよね。でも、なんでだろう?俺、生きてるんだよな。

 

あの日、激しい揺れが収まった後、当時の職場の休憩室になぜか置いてあったテレビを見て、震源地が相模湾駿河湾、東南海、南海ではなく、日本海溝であることが報じられてるのを見て、そしてその規模がマグニチュード9近いことを見て、「あっ、死んだな」って思いました。

そして、「あれ?なんで俺生きてるの?ああ、これから死ぬんだよね。なら納得。」と思いました。

そっち系に興味が尽きないオタクで、大学でそっち系の触りは勉強をしていたりもしたんですが、当時の研究では日本海溝にはそのレベルの地震を起こすポテンシャルは無いということだったんですよね。

それを聞いてもしかすると「原発を福島に作るために意図的に隠してたんだ!」とか言い出す人もいるかもしれませんが、俺が言いたいのはそういうことではありません。

道路も鉄道もその他インフラも、もちろん原発も、設計上耐えられなくてもおかしくない地震が起きたってことだな、と思ったんです。

本当に運よく、ありえないくらいの幸運で、津波も発生しなければ、とは思いましたが、さすがにそんな幸運には恵まれず皆さんご存じの通りの被害が出てしまったわけです。

不幸にして津波が襲った、のではなく地震からの当然の帰結として津波が起こったんですよね。もし発生しなければ本当に幸運だった。

 

そしてテレビを見ていると最初のうちは情報が無いだけで被害は報じられなかったですが、どんどんどんどん被害情報が入ってきました。

原発もやられたか……。そうか……。福島は、東日本は、いや日本は、いやいや、極東アジア全体は……、終わったな。福島だけじゃないだろうね。情報が無いだけでみんなやられちゃったんだろうね。

そんなことをぼーっと思いながら、また思っちゃうわけです。なんで俺生きてるの?って。

この規模の破局地震を至近距離で経験して自分自身が無事であるという現実に向き合えません。被災したかしなかったかで言えば一応は被災はしてますが、家の中のものが壊れたとか帰宅難民通勤難民になったとかもう些細なレベルです。生きるか死ぬかという被災ではないのが不思議で、現実味がなかったです。

翌朝職場からめっちゃ迂回して帰って来てやばいものを踏まないように気を付けて家の中、部屋の中に入り、テレビとPCの電源つけてのんきに日記更新をしたりしているのが不思議でしょうがなかった。

 

そして、今もまだ、あの地震を経験した自分が生きているという違和感を拭い去ることはできずにいます。もしかしたら一生だめかもしれません。

最近は、「自分はあの時一度死んでる」って思うようにしてます。そう考えるとなんとなく納得はできるんですが、もともと後先考えず刹那的に生きているのがさらに刹那的になるという弊害もあるので良し悪しです。

俺が思うに、一般的には国民性と呼ばれる日本に住む人たちのマインドにはこういう自然災害が非常に多いっていう地域的特性が色濃く反映されているんじゃないかと思っています。

自分たちで何とかしようとする、奪い合うのではなく配る、過剰な品質のものを作ってしまう、もちろんそれらはいい面もあれば悪い面もあります。

この地域に住む以上、誰かのせいにしていきていたらサクッと死んじゃうんじゃないかと思うんですよね。死んでから「政治が悪い」とか「大企業が悪い」とか文句は言えないですから。文句言う前に自分ができることをやんないと死んじゃうっていう意識があるんじゃないかと。そして、奪い合うと物が足りなくなるというのも肌で感じて知っているし、ひどい目に合ってる人のことを見て、明日は自分がひどい目に合うかもしれないという想像力を容易に働かせることができる、さらに、想定されるレベルを越える負荷がかかることを想定してしまうという世界的に見たらまったくもって無駄なことをしてしまうにもかかわらず、実際想定されたレベルをはるかに越える負荷がやってきてしまう、だから次に作るときはもっとがんばらないと、って思えるんだろうな。

 

あの日以降の日常は、あの日より前の日常とは似て非なるものだと俺は思ってます。

翌週、無理してでも来いって職場に言われてめっちゃ無理して職場まで通勤し始めて、もう無理って感じでぎゅうぎゅう詰めの電車に揺られて。家に帰ってニュースやネットを見てもなんかもう笑えて来ちゃってね。

もともとそういう人間だけど人の心はどっかに置き忘れちゃったんだろうなぁって思うとまた笑えてくるし。

ところが、水曜日、電車を降りて売店に行ったらサンデー普通に売ってて、まぁある以上は買いますよね、そりゃ。でね、読み始めたんですよ。いつものように。そうしたらね、なんかわからないけどね、涙が出てくるんです。悲しい話じゃないのに、っていうか悲しい話を読んでもめったに泣かないし。あれ、びっくりした。意味もなく泣けてきた。

あの瞬間、失われた日常が取り戻されたっていう感覚と、日常的な行動をしているのにそれがもう日常ではないっていう感覚と、他にも自分でも気が付いていないような感覚とが入り混じって、それがあふれたんだろうな。

 

あの地震とは全く違う方向性ですが、10年後の今も今までの日常はもう取り戻せないのかもしれない状況になっています。テレビとかでは悲しい話やるせない話をやってますけどそうじゃなくてたくましく日常を生きている人たちはきっとたくさんいるはずです。

その日常は今まで通りの日常ではないとしても……