2022年 着せ恋の1年が終わった
今年最後の記事になります。
他にいろいろ大変なことがあっただろうという突っ込みはあるでしょうがそれもひっくるめて俺にとっての2022年は着せ恋の1年だった。
まずは着せ恋本体の話。
最近になってアニメに覇権とかいう概念があることを知ったんですがそんなことは関係ないのですよ。生まれて初めて、そしてもしかすると生涯最後のハマったと言えるアニメです。
面白いものとハマったものがどう違うのかと言葉で説明するのは難しいけれど自分の中では明確に違います。
いてもたってもいられなくなるあの感じっていうのはそうそう経験できるものではない。
俺はアニメとかドラマとか映画とか、そういう動画メディアは苦手みたいです。面白いなと思うものはたくさんあるけどハマるものって今までなかった。
可能性としては、もし毎日見られる状態だったら「あまちゃん」にはハマったかもしれない。毎日見れる状態じゃなかったんで、テレビドラマで今風の四コマ漫画を再現していてすごいなとは思ったけどハマることはありませんでした。
着せ恋はハマった。我慢できず原作を買って読んだんだけどそれでもアニメにもハマった。初めての経験。原作とアニメとを比較しちゃうとそれが小説だろうが漫画だろうがどうしても原作の方がなぁと思っちゃうんですよね。具体例は上げないですが……。山ほどある。アニメはあくまでも気軽に触れることができる作品への入り口という認識でした。
それがまぁこの着せ恋に限ってはね。ほぼ原作通りにアニメになっているのに漫画というメディアでは表現できないことがアニメで表現されることもあるんだということが初めてわかりました。
1話から最終話までずっとそんな感じだったんですが、そのなかであえてここというところを挙げるとするとオープニングなんですね。
6話のオープニングにはしびれました。
その時はもう原作を読んでいてこの先どうなるかを知っていた。5話のラストから6話冒頭までどうつなぐのか楽しみにしていました。
アニメのスタッフは1週空けるという選択をしたのですが、ただ1週空けるだけじゃなくて、実質Aパートと言ってもいい長い長いアバンのあとにオープニングを持ってくるという選択をした。
そのオープニングがもうね……びっくりしちゃった。
何度も見直したけれど何も違いが無いオープニングなんですよね。なのに5話までと別物に俺には見えてしまった。
原作で展開を知っていたにもかかわらずです。
そう感じたのはもしかしたら俺だけで他の人にはそうは見えなかったのかもしれないですけどたった一人だけでもそう感じる人がいたっていうのがもうすごいことだと思います。
だいたい俺はオープニングとかエンディングとか毎回同じところは録画を見るときは
基本飛ばすんですが着せ恋は飛ばせないんですよね。
もう一つ、実は一部ブルーレイも買ったんですけどちょっと違うんですね。画質がいいとかじゃなくて、なんかさ、着せ恋ってCMブレイクも含めて完成されているように感じてしまった。
各パートの割り振りが各話によって違ってて時間間隔が狂うってのもある。
なんかそのすべてが俺の感覚に合ってたんですよね。こういうこともあるのかぁと。原作エピソードの取捨選択も違和感があるのは無かったし。
作画がどうとか演出がどうとか声優さんの演技がどうとかいう要素要素はあるんでしょうけど、そういう要素だけでは説明がつかないしそれを突き詰めていったところでどうにもならないような何かを俺は着せ恋のアニメに感じてしましました。
そもそも絵柄とか主人公2人の属性とかあらすじとかはどちらかというと苦手、はっきりいうと嫌いなタイプなんですよね。予備知識あったら見て無かったと思う。タイトルだけ見て適当に録画予約していたから出会えた作品。そんな作品にハマるんだからわからないもんですねぇ。
年の初めに着せ恋に出会ってしまったんだけど、ちょうどそのころ世界は大変なことになるような予感に包まれていました。
まだ原作に手を出す前、アニメ1話2話を見てこれはヤバいやつかもしれないと思っていたころ、ソロで泊りがけのスキーに行ってました。
いろいろ考えちゃうんです。
のんきに滑ってる最中に世界が終わるかもしれないとか。世界は終わらなくても運悪く巻き込まれて人生が終わるんじゃないかとか。着せ恋は途中で放送できない状況になるんじゃないかとか。
そしてそれもまた着せ恋にハマる一因になってしまいました。
喜多川海夢っていうキャラクターが、彼女の考え方というか彼女にとっては当たり前のことが残念ながらリアルでは当たり前ではなくて、だからそういうことが起こるんだろうなぁって。
なぜ人は自分とは違う価値観を認めることができず、同じ価値観を他人に押し付けようとするのかなぁって。その後夏に起こった事件でもそれを思い起こしました。
しかも着せ恋では決してそれだけですべてが解決するわけじゃないってことも提示されていて隙が無いんですな。
対立って盛り上がるから対立を煽るような勢力は様々な立場で存在するし、知ってか知らずかそれに乗っていい気持になる人々もかなりたくさん存在するんだけど、それって意味あるの?って思えてくる。
自分の好きなものを否定することは許さないけど、他人の好きなことを否定することもしないというシンプルだけどとっても難しいことを天然でさらっとやっているキャラクターの存在を知ったことで逆に現実に絶望したりしてしまいます。
幸いにも1月に予感していた世界の破滅は現実には今こうして書いているときには怒ってません。
しかし次の1文字を入力するその瞬間に破滅が訪れてもおかしくはない状況だという危機感は変わっていません。
その危機感を忘れさせるのではなく、どうすれば危機を回避することができるのかという考え方を提示してくれているんじゃないかなどと大げさなことまで考えてしまいます。
年末は配信サイトとかでアニメの一挙放送とかもやっていますが、俺は「完成版」と言えるテレビ放送版を自主的に一挙放送しています。
10回以上は見てるんだけど見ちゃうよなぁ。
おそろしいもの作ったんだなぁ。