××だから○○されてもしょうがない、という意見は言ってはいけないし従ってもいけない

移転前のブログ時代から暖めていたネタがあります。

「いじめ認定なんていう馬鹿なことはやめるべきだ」っていうネタです。

何で暖めていたかというと対案が思いつかなかったんです。あるにはあるけどその対案を自分が許容することができない。

 

ここで「いじめ認定なんていう馬鹿なことはやめるべきだ」というネタを枕に使ったってことは永遠にお蔵入り濃厚です。

 

 

本題は簡単な話です。

××だから○○されてもしょうがない

っていう言い方は応用範囲が広すぎるんですよね。

芸能人だから、警官だから、犯罪者だから、ルールに従わないから、政治家だから、弁護士だから、引きこもりだから、結婚してるから、独身だから、男だから、女だから、サラリーマンだから、学生だから、失業者だから、XXに住んでるから、日本人だから、外国人だから、XX国籍だから、XX教の信者だから、XX人種だから、などなど、何でも使える。

最後の方になるといわゆる差別とかヘイトスピーチなどと言われるような言説になりますが本質的には同じ話だろうと思っています。

××だから○○されてもしょうがないという考え方を捨てないといけないし、それを捨てようと多くの人たちは努力してきたし、今までも努力しているはずです。

そういう言説は非常にわかりやすくて反感、または同意のどちらかを得られることが多いから、愛用する人が多いこともよくわかります。かまってもらいやすいんだもん。

だからといって安易に使うのは感心しないし自分でもあんまりしないようにしてますけど時々ネタとして使っちゃうよな。反省。

そういうこと言ってる人のほとんどはかまってちゃんで真性はごくごく一部だと俺は思ってます。

 

上の例であげた犯罪者だから…だと、有名なのは目には目を…ってやつじゃないですか。今でもそれが生きているところはあるけれどとても合理的に見えるその刑罰が多くの国で採用されていない理由はそこにあると思うんですよね。

感情的にはとてもわかる。俺だって「死刑なんて生ぬるい。生きたまま永遠に苦しませてやるべきだ」などと内心思ってしまうことがありますし、実際被害を受けた人やその関係者はもっと強烈な思いを持っているでしょう。

それでも目には目を、が採用されない理由はそれよりも罪を罰するという方が抑止力としての効果が高いと歴史が物語っているからかもしれないんですよね。人を罰するよりも罪を罰する。決して人権がーとか人道的にーとかではなくその方が効果が高いってことなんじゃないかと。

どうなんだろうね。

 

これって、俺がインターネットの可能性として感じてる「誰が言ったかではなく何を言ったかが重視される社会」っていうのと同じ話なのかもしれないなとも思ってます。

結局「誰が」ってことになるから思考停止しちゃうし誹謗中傷が発生したりするんですよね。「何を」っていうところに着目すれば「自分だったらこうする、いやそれはまずいか、だったらこう、いやいやそれも…結局こうなるのか」などと考えることができるはずなんですよ。

 

話があっちゃこっちゃ飛びましたが、最後に枕に戻ってみます。

「いじめ認定なんていう馬鹿なことはやめるべきだ」っていう記事を書こうとして大安を考えて、結局思いついたのは「経緯には関係なく原因となった人には結果責任を負わす」っていうやつです。いじめてたかいじめてないか関係なく、結果が重大ならそれに対する責任は負うと。でもそれって「目には目を」と同じなんだろうなぁと俺は思っていて、自分で思いついたのに自分で賛同できないという難しい立場に追い込まれてずっとずっと暖めてました。