東京オリンピック開会式をめぐるごたごたで気になった2つのこと

違う考え方を持つ人もいてそっちの方が多数派だと思うのですが今思ってることを書き留めておきます。

 

 

まず1点。これは俺のポリシーの話です。

作品を評価するときにそれを生み出した人のパーソナルなデータというのはノイズであり排除されるべきであると俺は考えてます。

現実にはとっても難しい。そんなことを言ってる俺が本を買う時は作者買いをしてしまうんですから。誰が書いたか、作ったかではなく、なにを書いたか、作ったかが評価される世界がやってくるんじゃないかというのを、インターネットに触れたばかりの頃に夢想してしまって、それから何十年も経っていますがその思いからはいまだに抜け出すことはできません。

公的な仕事で、それには不適格な人物、という評価を受けたとしても、作ったものは評価されるべきで、正当な対価は支払われるべきだと俺は思ってます。

 

 

もう1点。俺はこっちの方が深刻だと思ってます。

世の中が表現の自由を奪う方向に向いている。

タブーとされるものを取り上げること自体が許されなくなってきている。世の中で「それはだめ」という評価をされていることを礼賛するようなことなんか絶対に許されなくなってきている。

たとえそれがフィクションの中であっても。

 

これって、危険な方向性だと思うんですよねぇ。実際、太平洋戦争の時にはその世の中の空気に合わないものは排除されてたらしいじゃないですか。そういうものを生み出す人も排除されてたらしいじゃないですか。排除するものの内容は違ってもやってることは同じで、みんなと違う考えのものは排除しようという考え方自体が危険だと俺は思ってます。

過去に教訓を得ているという触れ込みのマスメディアもこの件についてはあまり騒いでいないしますます危険です。

日本が、っていう話じゃありません。日本はおそらく世界的に見ても非常に表現が自由な国だと思います。これまた荒れそうなネタだけど、宗教的な基盤が弱いというのが一番大きな理由かなぁと俺は思ってます。その背後にはいまだに自然崇拝が色濃く残っているってことなのかなぁとか。その理由は……、それによって国民性と言われるものが……、と発展するんですが話ずれまくりです。消しました。

自由の国アメリカでも第二次世界大戦後にそういうことが実際に行われていたということだし、今回話題になったやつは全世界的に触れるのはタブーとされているし。

それって逆にそれを礼賛する人がよりそれに傾倒してしまうことになるんじゃないかとも思っています。陰謀論的な考え方に陥りやすくなりそう。

強者を笑うことは勇気がある行動ですが、弱者を笑うことはもっと勇気がいる行動で、それをするためにはまず自分自身を嘲笑わなければならない、という趣旨の言葉はまぁ誰の言葉か想像にお任せします。その考え方にはすごく影響を受けてます。

タブーとされているものを礼賛するとしか思えないような、ほとんどの人が上っ面だけ見ると排除すべきと思ってしまうような内容だけど、見る人の心に引っかかって離れない何か別のものが潜んでいるような作品があったりしても俺はいいと思ってるんですよね。

ずいぶん前に前のサイトで書いた蟹工船の感想文、あれの逆かもしれないし、多分違うだろうけどあれ自体そういう作品だったのかもしれないし。

表現者はそういう制約の中で表現をするべきだという考え方だってありますけど、俺はそういう制約自体に意味が無いと思っています。制約のない中で自由に表現して、その結果、触れた人に何かを感じさせる作品というのをこの先人生長くないけど見つけてみたいなぁと思っています。

どんなに品行方正な作品だって、それで壊されちゃう人はいるんです。その作品が優れてさえいれば。

どんな下劣な作品だって、それに感銘を受ける人もいるんです。その作品がすばらしければ。

 

なんにしても、世の中が1つの方向を向くのは、俺にはとても怖い。仮にそれがその時「正しい方向」だとされていてもね。